Kiramune Presents READING LIVE「天穹のラビアス」感想

「天穹のラビアス」とは何だったのか

「天穹のラビアス」とは、「神殺し」の物語である。
洋の東西を問わず、神話には付き物の「神殺し」。
劇中で「ガイア」と呼ばれている、自意識を持った知的生命体である地球そのものをラスボスに据えるこの物語は、母なる大地に抗う人類の儚いレジスタンスである*1

「天穹のラビアス」の作品作りとは

暴論だが、「天穹のラビアス」は「蒼穹のファフナー」を換骨奪胎、再構築した物語である。
未知なるものの声、敵との同化、対抗組織の動向…そもそもタイトルがオマージュなのではないだろうか。
しかしてその実態は、「敵の正体と原理が解明されていない味方側のエネルギー源が、実は同一のものだった」、「最強のワンオフ機と唯一適合する少年」、「冷静沈着・効率第一のオペレーターにも情に熱い一面があった」、「非情な司令官が、実は若い頃はパイロットだった」、「かつて敵対していたメンバーが最終決戦に合流」などなど、「天穹のラビアス」全般として、所謂「ロボットもの」と呼ばれるジャンルの「よくある展開」をコラージュした作品である。
アフターガンダム(「機動戦士ガンダム」(1979年)以降)のロボット作品、所謂「リアルロボットもの」に慣れ親しんだ人には、目くばせどころか終始ウインクしてくる勢いの作品とも言える。
そんな中、普通なら少年兵(本作の「未来」や「星螺」*2)を主人公に据えがちなロボットものにおいて、彼らを送り出す整備兵の目線から物語を紡ぐ、というのが今作の独自性であり、ストーリーそのものはストレート(よく言えば王道、悪く言えばベタ)、パンフレットのインタビューではそれを「中二病」と称しているのだと思われる。
良い悪いではなく、この企画をそのままアニメ作品として世に出せるかと問われれば難しいだろうし、正に「リーディングライブならではの、大人が本気で遊んだ作品」と言えるのではないだろうか。
補足として、ゼーベック虫およびゼーベック・セルによるエネルギー問題の解消周辺の設定は、OVAシリーズ「ジャイアントロボ THE ANIMATION -地球が静止する日」(1992年)の影響が色濃く出ていると個人的に思う(パンフレットに明記は無いため、真偽は不明)。

「天穹のラビアス」の構成とは

「天穹のラビアス」は二部構成の作品である。
劇中でも2年の時間経過があるが、「射弦八雲」がノアールとの会敵により消息不明になるまでの第一部と、「日野未来」、「住良木星螺」の2人の候補生が物語の中心となる第二部である。
テレビシリーズに例えるなら、前半2クール24話で第一部、後半2クール24話で第二部といったところか。
後の展開を知った後では、「八雲」の特攻とノアールとしての再登場に、「劇場版 機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-」(2010年)の特攻から「ガンダム00 Festiva 10 "Re:vison"」(2018年)でELSとして再登場したグラハム・エーカーを想起してニヤリとしてしまうが、そこに類似性を見出すのは強引過ぎるだろう。
第一部より以前、第四次世界大戦は舞台背景(荒廃した地球、既存の国は無くなり世界統一国家の中でエリアという枠組みが出来ている、戦争の副産物としてゼーベック虫が発見されエネルギー問題が解決)を整えるための舞台装置でしかない。
しかし大戦後の「対ノアール組織の設立」かは、所謂「エピソードゼロ」的な立ち位置で物語終盤に登場する。朔守英雄役・古谷徹氏がカーテンコールで「おいしい役どころ」と称した、ジンライザー・プロトタイプ(通称・ゼロ)の研究開発のストーリーである。
「プロトタイプは動力源の半分がメルト(純粋水爆)」というように、「搭乗にリスクが伴う旧型機で出撃する司令官」というシチュエーションは、映画「パシフィック・リム」(2013年)のPPDC司令官・スタッカー・ペントコストを思い起こすには十分である。
(ちなみに、古谷氏は同作品にドイツ人生物学者ニュートン・ガイズラーの吹き替えとして参加している)

「天穹のラビアス」の受け継ぎとは

主人公の世代交代は、鬼門である。
例として適格かは議論の余地があるが、言わずと知れた「ドラゴンボール」(1984年~、鳥山明)で、「セル編」終了後の「魔人ブウ編」前半では、それまでの主人公・孫悟空が亡くなっており、息子の孫悟飯が主人公としてストーリーが展開したにも関わらず、間もなく悟空が主人公に返り咲いている。
同じくジャンプ漫画である「デスノート」(2003年~、原作:大場つぐみ、作画:小畑健)では、主人公は「キラ」として暗躍する「夜神月」であることは一貫しているものの、第一部の主要キャラである「L」が亡くなり、第二部ではその後継者候補である「メロ」と「ニア」を据えた三つ巴の様相を見せていたが、第一部と比較して第二部の尻すぼみを感じた読者も多かったであろう。
前述の通り、「天穹のラビアス」は二部構成となっており、普通の作品であれば優等生のエースパイロット「射弦八雲」から候補生である「日野未来」、「住良木星螺」への引継ぎイベント(何なら二人を庇って八雲が戦死する展開)があって然るべきである。
「八雲」から「未来」、「星螺」への主人公交代だったとしたら、「八雲」が偉大過ぎて「未来」、「星螺」の影が薄くなるか、それを避けようとして「星螺」がスーパー主人公になり過ぎることで「八雲」ファンからはヘイトを買い、「未来」ファンは不遇さゆえに「星螺」にヘイトを貯めることになるだろう。
しかし、本作の主人公はあくまで「駆藤眞人」である。八雲を見送ったトラウマも、まだ若い未来に人類の命運を託さざるを得ない不甲斐なさも、星螺に未来の遺言を伝える役割も、何なら学生時代に瓦礫の下敷きになって助けられなかった少年のトラウマも、全て眞人が引き受けることになる。
「天穹のラビアス」が二部構成でも見易いのは、目線が常に「眞人」に固定されているからに尽きる。
「未来」の出撃前の会話、「恥ずかしいよ!」と絞り出した叫びは、コーヒーじゃんけんで年下に奢られることにではなく、世界の命運を若い両肩に背負わせざるを得ないことへの悔しさであることが伝わる構成になっている*3

「天穹のラビアス」のバディものとしての側面

「天穹のラビアス」はバディものとしても楽しめる。
優等生「射弦八雲」と劣等生「駆藤眞人」、出撃前の「八雲」との約束が、ある意味呪いとなって「眞人」に伸し掛かる。
天才で自分本位な「住良木星螺」と秀才で他人思いな「住良木星螺」、「新機動戦記ガンダムW」(1995年)のヒイロとデュオを思わせる丁々発止のやり取りが続くかと思いきや、妹の命も世界の命運さえも託される展開。
総司令「朔守英雄」と参謀「立花政一郎」、無慈悲な総司令の真の姿を知るのは参謀だけであった。
これらもまた王道といえば王道、ベタといえばベタなキャラ配置ではあるにしろ、リーディングライブ2時間という一発勝負の作品では効果的に機能していたし、作劇に現れない関係性も想像できる内容に仕上がっていたと感じる。
余談だが、「未来」の出撃前の「誰か代わってくれないかな…」に、「ぼくらの」(原作漫画2004年~、アニメ2007年)並みの鬱展開を感じることになるとは思わなかった。

「天穹のラビアス」は結論、面白かったのか

回答:熱い展開の連続ではあった。
作劇上の面白さとか、ストーリー展開の意外性・緻密さとか、そういうものがあった訳ではない。
つまり同じ脚本でアニメが作られたとしても、手放しで絶賛するような作品にはならなかったと思う。
これはリーディングライブという舞台だからこそ楽しめた作品だし、次から次に重ねてくる熱いシチュエーションに手に汗握り、涙腺が緩み、感動を覚えることができるのだと思う。
最終決戦にかけての怒涛の展開は特筆すべきものがあるし、アーカイブで観て絶対に損はない、そんな作品。

*1:「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」(2021年)での碇ゲンドウの台詞「ネルフ人類補完計画は、後者を選んだゼーレのアダムスを利用した神への儚いレジスタンスだが果たすだけの価値のあるものだ」より

*2:機動戦士ガンダム」(1979年)の登場人物、ミライ・ヤシマセイラ・マスから名前を引用している…のかは不明

*3:本作における「大人のキスよ。帰ってきたら続きをしましょう。」(「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Airまごころを、君に」(1997年))である。